伝統行事の最近のブログ記事

今日は1月7日。五節句の一つで、人日(じんじつ)といい、七草粥を食する日であります。

我が家では、前日の6日からストーブに鍋を掛け、神祭りのお供えの五穀をいれて、ぐつぐつと炊いておきます。7日の朝に、七草を刻んで鍋に入れ、七草五穀粥を戴きます。
七草の緑と大豆の黄色が互いに引き立てあって、見た目もおいしい粥であります。

ちなみに、五節句とは、3月3日、5月5日のように奇数月の同じ奇数日を一年の節目として祝う日でありますが、1月1日は元旦として別格扱いとし、その変わりに1月のみ7日を人日(じんじつ)の節句とするものです。

五節句は下記の通りです。

 1月7日 人日(じんじつ) 七草粥
 3月3日 桃の節句、ひな祭り
 5月5日 端午(たんご)の節句、子供の日
 7月7日 七夕(しちせき、たなばた)
 9月9日 重陽、菊の節句

家庭でこういう年中行事を行うことが、子供の心を育てることに深く想いを致して戴きたいものです。




平成二十二年、明けましておめでとうございます。

例年、大晦日は、除夜の鐘が鳴り始める前から越年祭を始め、年が変わる頃には新年を迎える祭りをお仕えしています。越年祭・新年祭を終えて、午前一時前に近所の産土神社へ初詣に出かけました。

私の産土様、竹渕神社は、この数年、見違えるばかりに神気が充実してきました。
氏子総代を始め、土地の人たちが産土様を大事にしてくださるおかげで、神域の整備が進み、拝殿や神庭が清浄に保たれ、参拝者も漸増しているようです。
宮司は常住せず、近くの菅原神社の宮司が重要祭事にはおいで下さいます。

一つの産土神社が、神界と正しくつながって神気を生々とこの世にもたらしてくださるためには、宮司はもちろんですが、それ以上に土地の人々がその産土神社を大事になさる必要があります。

その土地の人々のエネルギーを使って、産土神がお働きになるのです。

神様が、人間のエネルギーをお使いになるのです。
だから、人間は、神様に使っていただけるようなエネルギー体になることですね。




この間の満月近くの夜のこと、幼い女の子が月に気付いて声を挙げた。

「あ、お月さんだ、お父さん、お月さん、お月さん・・・」

ところが、一緒に歩いていた父親は、返事もしない。

オイオイ、一緒にお月さんの美しさに驚いてあげろよ。

子どもの心にお日様、お月様、お星様を深く住まわせてあげたいものです。
日月星と心を通わせるということは、単なる風流ではなく、うんと深い意味があるんですよ。
月の神は霊魂の根源神。

昔から、日本人はお月様のことを、ノンノ様と申し上げて、親しんできました。
また、月を歌った和歌、俳句、演歌、歌謡曲等は無数にあって数え上げることすらできません。

そういうお月様に対して、子供が新鮮な感受性を働かせているのに、大人が無感覚では、子供の感性もしぼんでしまいます。

せめて毎月の満月には、お月様に団子でもお供えして、お月様と心を通わせましょう。それが子供の心を育てます。

とんど焼きを左義長(さぎちょう)焼きとも言いますね。
今、お年寄りの間でゲートボールが盛んですが、昔似たような遊びがありました。

木槌(きづち)を長くしたような棒で木製の球を撞いて遊んだのです。その棒を毬杖(ぎっちょう)と呼んでいました。

1月15日小正月になると、毬杖(ぎっちょう)を三本組み合わせ、そこへ正月の飾り物などを載せて火で燃やしたことから、三毬杖(さんぎっちょう)焼きと言われ、左義長(さぎちょう)焼きに転化したとか。

確かに小槌の形をした毬杖(ぎっちょう)でしたら、地面に立てて三本を組みやすいですね。

それにしても、ゲートボールに古(いにしえ)の毬杖(ぎっちょう)遊びを重ね合わせると、なかなかにゆかしい遊びですね。
毬杖にうつつを抜かす人を指して「毬杖冠者(ぎっちょうかじゃ)」と称したとか。
よろしいじゃございませんか。

付記:「尊(とう)と焼き」から「とんど焼き」となったという説があり、「どんど焼き」とも言う。私の生地(大阪)では、「とんと焼き」と言ってます。

和の暮らしが楽しい!おうち歳時記

Yahooで「鏡開き」を検索すると、トップあたりに出てくるある酒造会社の説明に、
 「鏡」は円満を、「開く」は末広がりを意味します
とある。

鏡を円満の象徴とすることを、一概にウソとも言い切れませんが、その程度の感覚でとどまっていては、ヤマト民族の真価が発揮されません。

鏡は神様を映すモノ。映るということは、表れるということです。

ヤタの鏡は天照大神を映す鏡、つまり、天照大神がそこから表れてこられる鏡のこと。

大年の神を映して新年の祭りをするのに用いるのが鏡餅です。
それを円満の象徴程度のことで丸く納めてしまっては、祭祀民族の面目が立たないでしょう。

一月十一日は「鏡開き」の日。
この日に鏡餅を神棚や床の間から下ろします。

なぜ鏡の餅というのか?

この世の鏡は、人の姿を映しますが、神様の世界の鏡には、神様が映ります。

その鏡になぞらえて餅を神前あるいは床の間にお供えし、大年の神様のヨリシロ(受信装置)とするわけ。
つまり、神様を映す鏡ですね。

だから、やっぱり、真空パックはよろしくないというのです。

ところで、Yahooで「鏡開き」を検索して見てください。トップあたりに出てくる酒造会社の説明はいけませんなあ。
昨日の日記「鏡開きのウソ本当」をご覧ください。

鏡餅を二つ重ねて大年(おおとし)の神様のよりしろ(受信装置)とすることを考えると、最近はやりの真空パックの鏡餅は、あれでよいのでしょうかね。

カビが生えるから面倒だとか、極端な例では、去年一昨年(おととし)の真空パックを飾って安くついたと考えている家もある。
新しい年の新生の運命を大年の神様が年魂(としたま)として分けてくださるのに、いや私は昨年の古い運命で結構でございます、私は一昨年のホコリまみれの運命でよろしゅうございます、というおつもりか。


面倒くさいなどと言わずに、せめて一年の初めくらいは、生々の神気を受けるにふさわしい形をとってはどうであろうか。

餅にカビが生える、それを削って餅を割る。
それもまた楽しいことではありませんか。

正月に鏡餅を飾ります。
餅を二つ重ねて、神棚や床の間、その他正常な所へお供えします。

餅の上に、橙やウラジロ、干し柿等を載せるお家も多いでしょう。

これは、二重ねにした餅に意味がありまして、この餅が、大年の神様の依り代(よりしろ)となるのです。

大年の神様、どうぞ我が家にもおいで下さいまして、新年の新しい運気を私たちにもおわけ下さいませ、という心を表しての鏡餅ふた重ねです。

お客様がお出でになりますと、座布団を差し上げますでしょう。

まあ、いわば、大年の神様に差し上げる座布団が、鏡餅なんです。

その座布団、美しく豊かに整えたい物ですね。

お年玉の由来をご存知ですか?
正月に注連(しめ)縄を飾って家で祭りをすると言いました(前日の記事参照)。

その祭りとは、大年(おおとし)の神様をお迎えする祭りです。

平成十八年の大年の神様が役目を終えて退陣なさいますと、代わって平成十九年の大年の神様が平成十九年の運命を携えてお生まれになります。
その大年の神様の神魂(みたま)を分けて戴くのが、大年魂(おおとしたま)、つまりお年玉です。

大年の神様から大年魂を戴いて、この一年を力強く生きて生きましょうというのが、お年玉に籠められた民族の心です。

そう考えると、お年玉は子どもだけではなく、大人だって戴きたいものですね。
その戴き方は? → 明日の日記

正月を迎える準備として、注連(しめ)飾りを玄関に飾る家は今でも多い。
この意味をご存知であろうか。
注連飾りは、魔よけである。

新年を迎えるに当たって、家の玄関に注連縄を飾るということは、単なる装飾的意味ではなく、その家で新年を迎える祭りを行いますという心がけを表してのことである。

魔よけを張り巡らして結界をつくり、その結界の中で、新年を迎える祭りを行うという、日本人の心を表して、注連飾りである。

祭祀民族・日本人の伝統は、マツリと切り離すことは出来ない。

初詣は先ず、産土神社へ参拝なさるのがよろしいでしょう。

All〇〇Japanの新年マニュアルとやらをみて、その内容に落胆しました。
当然のことであったはずのものごとが、ずいぶんと狂ってきているようです。

あわててトランスペースのサイトに「初詣は先ず産土神社へ」をアップしました。
自分の住む土地の産土神社をさておいて、恵方参りやら有名神社やらへ参拝するのは、本筋から外れます。

ぜひともご一読くださいましてよいお年をおむかえくださいますように。   (昌原容成)

→ 初詣は先ず産土神社へ参拝を

少名彦那(すくなひこな)大神と大穴牟遅(おほあなむち)大神の神座が、産土の神座には必ず備えられていると申しました。

大穴牟遅さまがあの世のミタマを支配なさいます。
それゆえ、大穴牟遅大神を、幽界(かくりよ)の司の神とお呼び申し上げることがあります。

少名彦那さまは、あの世この世を問わず、霊魂すべての戸籍にあたる霊籍簿を一手に掌握なさっていらっしゃる。
それ故、少名彦那大神を別名、大司命神(だいしめいしん)とお呼び申し上げることがあります。

大司命神・少名彦那大神と 幽界(かくりよ)の司の神・大穴牟遅大神は、しばしば両面合わせ鏡のようになってお働きになります。

昨日は春分の日(春の彼岸の中日)。
春分の日のみたま祀りの首座にお就き遊ばすのは、少名彦那大神であり、

秋分の日(秋の彼岸の中日)のみたま祀りに首座にお着き遊ばすのは、大穴牟遅大神でございます。

少名彦那大神を、春告げの大神 と申し上げ、
大穴牟遅大神を、秋をもたらしの大神 と申し上げるのはそういうわけです。

たとえ神社の由緒書には記載がなくとも、産土の神座には、この少名彦那大神と大穴牟遅大神の神座が必ず備えられているということ、日本人の常識にしたい物ですね。

昨日の日記で「産土神を呼びなさい」と記しました。
人間死後の行く先を示して下さるのは産土神と申し上げてよろしいのですが、そこの所をもう少し詳しく申しますと、

  あの世のミタマ達を支配なさるのは大穴牟遅(おほあなむち)大神

であります。

○○さんのミタマ祀りをする際に、はい、○○さんいらっしゃい、と行ったところで、当の○○さんがそれに答えてすぐにやってこられるとは限りません。眠りこけている場合もあり、身動き取れぬ状況にある場合もあります。

この世ではそんなことはお構いなしにみたま祀りをすすめますと、そのみたま祀りは空転しますね。
そいうことが、実はよくあることでありまして、みたま祀りがこの世の人々の自己満足で終わってしまうのです。

そういう際に、大穴牟遅(おほあなむち)大神をお呼びして、大穴牟遅大神のお力によって、○○さんを祀りの庭に呼ぶのです。

そうすると、あの世のミタマを支配なさる大穴牟遅さまの神力によって、そのミタマが祀りの庭に呼び出されるわけ。

全国各地の産土の神座には、この大穴牟遅大神の神座が、少名彦那大神の神座と共に備えられているのです。
ですから、産土さまーといって手を合わせると、その祈りは大穴牟遅さまにも通ずるのです。

これが、人間死後の世界を産土様が司っておられるということの真相です。

彼岸が近づくとあの世のミタマ達がいろいろと立ち騒ぐようになります。
自分の行く先を知らずに迷い、この世の人間にすがるというミタマもいます。
その中には、生前熱心にある教団を信仰していたのですが、いざ死んで見ると全然話が違うというのでとまどっているミタマたちもいる。

そういうミタマ達には、産土神のことを教えてあげるとよいでしょう。

人間は産まれる際に、産土神が両親との縁を結んでくださるのですが、死後の導きをなさるのも、本来は産土神のお仕事です。
そこへ人間が宗教というものを持ち出して、宗教のやり方で死後の世界を渡ろうとすると、神様方は手を引かれます。

あなたが自分でやりたけりゃ、どうぞお好きになさいませ・・・

という訳ですね。

教団のエネルギーが強い間は、まだそのエネルギーであの世を渡世も可能でしょうが、宗教教団は所詮人間の作り物です。
人間の作り物は、はやり廃(すた)りがありまして、いつしか教団も変貌していき、エネルギーが枯れてくることがあるのです。

そうなると、その教団の教えに染まってなくなった人たちは、二階に上って梯子をはずされたようなもの。
話が違うとさ迷うことになりますね。

そういうミタマ達よーー、よーっく聞いておきなさい!

自分の力で、自分の産土神を呼びなさい。そして産土神の導きの手に乗りなさい。

産土の神様、どうか私の行くべき所をお示し下さい、と自分でお願いするのです。

人に祭りをしてもらって、人の力で救われようとは思いなさんな!

【参考記事】
 【6】産土神の霊験記(1)産土神はさ迷える霊魂の行き先を示す
 【7】産土神の霊験記(2)産土参拝と人間神力で霊群を鎮定

昨日(3/17)は、春の彼岸の入りの日。
この日から七日間を彼岸といい、真ん中の日(今年は3/20)を彼岸の中日(ちゅうにち)という。

春の彼岸の中日が、春分の日であり、
秋の彼岸の中日が、秋分の日である。

彼岸とは、三途の川を境にして向こう岸の側、つまりあの世のことであり、対してこちら側を此岸(しがん)という。

彼岸にいる先祖のみたまと、此岸にいる私たちが、一緒になって行うのが「みたま祀り」である。

春分、秋分は、太陽と地球との位置関係上、日光が深く地球にそそがれる。
その日の光を使って、彼岸を調え、此岸を調えるという点に、春分秋分のみたま祀りの意義がある。

ある人からメールを戴いた。
「今日は満月の中、山中湖に富士山を見に出かけました」

まだ会ったこともない、若い女性であるが、何気ない一言の中に、彼女の人となりが窺える。
「今日は満月」とサラリと言えるのが素晴らしいのである。

神祀りする身であれば、毎月の満月祭を欠かさないのだが、最近の日本人の心から、お月様の存在があまりにも薄らいでしまった。

数年前のある統計で、日の出、日の入りを見たことが無いと言う子どもたちが3割以上に登るという結果が出た。

その子どもたちは、いつの間にか夜が明けて、いつの間にか暗くなるというだけのことであって、一日の明闇と日月の関わりが心にはいっていないのであろう。

お父さんお母さん、子どもたちの心に、お日様お月様お星様を住まわせてくださいね。

2月3日は、節分です。節分の翌日は立春。

節分に限らず、年中行事というものは、大切になさるのがよろしいでしょう。
古い昔の伝えごとだから、別に捨ててもよかろうなどとはお考えにならないことです。

子どもさんをお持ちのお家は、子どもさんと一緒に年中行事を楽しむとよいでしょう。
それが子どもの心を育てます。

年中行事が何故子どもの心を育てるのか?

それは、民族が伝えてきた年中行事には、民族の心が響いているからです。
その響きを、子どもは毛穴から吸い込んで行くのです。
これは理屈の外(ほか)。

豆をまきながら亡き母を懐かしく思い出しました。

母は韓国で生まれ、二十才過ぎで日本へやってきて以来、六十数年を日本で暮らしました。
日本語も充分に話せぬ母でしたが、年中行事の類が大好きな人でした。
節分になると、「オニハーソトー」とへんてこりんな抑揚をつけて豆をまいたものでした。
物置を隅っこをほじくり出すと、ひょっとすると母が十年二十年前にまいた豆がいくつか出てくるかもしれません。

私自身が五十才を過ぎた今、そういう母を振り返ると、年中行事によって子どもの心にとても豊かな栄養を与えてくれたのだと感謝しています。

お父さんお母さん、暦と仲良しになって下さい。
そして年中行事を生活に取り入れて、子どもさんと一緒に楽しんでください。

年中行事は子供の心を育てます。
子どもの心の栄養も考えてあげてくださいませ。

1月15日は、小正月。
この日に「とんど焼き」を行うところが多いようですね。

多いと言うことであって、この日に限ったことではありません。
8日に注連(しめ)飾りや古いお札などを持ち寄って、炊き上げる神社も各地にあります。

神祀りに使用したものを、ゴミ箱へ捨ててしまうのはどうにも気が引けますね。
そこで火をつけて燃やしてしまうというのは、とても素晴らしい智恵だと思います。

家庭でとんど焼きを行う際には、火に気をつけたいものです。清らかな火を用いたいものです。

では、清らかな火は、どのようにして手に入れますか。

炊き上げるモノザネを塩で浄めて、マッチを擦る、あるいはチャッカマンをつける。
その際に、火の神様にお願いして清らかな火をともして戴くのです。
つまり、祝詞を唱えるのです。

まあしかし、祝詞というほどの厳かな言葉を知らなくてもよいでしょう。
「火の神様、この○○を火炊(ほた)きする清ら火をともしてくださいませ」と申し上げて、マッチを擦るとよいでしょう。

なんだ、唱えるだけでよいのかですって?
そうです。言葉には力があるんですよ!

修羅の世と雖も冥加(みょうが)の初明り (喜多女)

地球上に紛争はつきず、個人の人生もまた、時に修羅道(争いの世界)を歩むかと思わせる時がある。

しかし、新年新生の気は人皆に初明かりを灯して下さる。
新年という節目があることが、どれほど人間の心を新たにして力づけてくれることか。

節目節目を正しく祀る心こそ、祭祀民族たるやまと民族の生き方の根っこではないか。

節目節目の伝統行事を行うことが、子供の心を育てる事にもなるというのは、やまと民族の心を育てることになるからである。

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